人の移動の歴史

人の移動の歴史

人類誕生以来、現代に至るまでの、人の移動の歴史。

現在広範に支持されているのはアフリカ単一起源説であり、ホモ・サピエンスは7万前にアフリカから外へ移住し始め(出アフリカ)、そのルートはアフリカ東部の突端であるいわゆるアフリカの角からアラビア半島を経由したものだと考えられている。

アフリカを出た現生人類はアラビア半島沿岸部を伝って現在のイラン付近に至り、そこを起点に、インドから東南アジア、オセアニア方面にむかう「南ルート」、中央アジアを経由してアルタイ山脈、東アジア、北アジア方面に向かう「北ルート」、中東、ヨーロッパに向かう「西ルート」の3方向に分かれた拡散していった。

 

民族移動時代

西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことであり、この移住が古代を終わらせ中世が始まったと考えられている。

この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。

これは中央アジアでのトルコ系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。


『ディアスポラ』とは…

ディアスポラ

(ギリシア語: διασπορά、英語: Diaspora, diaspora、ヘブライ語: לות‎)または民族離散とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、よくパレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人およびそのコミュニティに使われたが、古代から現代にかけてのギリシャ人のディアスポラ、アルメニア人のディアスポラにも使われて、最近では華僑、印僑、日本人のディアスポラ(日系人)などと広く使われている。

ディアスポラは、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指すようになった。

難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。

歴史的な由来から、英単語としては、民族などを指定せず大文字から単に Diaspora と書く場合には特にイスラエル・パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団のことを指し、小文字から diaspora と書く場合には他の国民や民族を含めた一般の離散定住集団を意味する時代もあった。

しかし、もともと古代ギリシャのディアスポラに使われたもので、最近ではアルメニア人のディアスポラ、華僑、海外の華人、そして欧米の大都市で居住・労働するインド亜大陸出身の知識人」、「アメリカ=メキシコ国境におけるチカーノ(下層移民)の分裂、ブラック・アトランティック(黒い大西洋)といった多様な文化的枠組みを記述するうえでこの術語が用いられるようになっている。


ギリシャ人のディアスポラ

 

古代から現代へのギリシャ人のディアスポラ

古代ギリシャでは、ギリシャ民族がギリシャの国を離れて、地中海沿岸や黒海沿岸に進出して、ギリシャ人コミュニティーを作っていった。

近代に入って後、19世紀は政治的な理由で、20世紀には経済的な理由で、ギリシャ人の海外進出は続いた。

1922年には、トルコとギリシャは、トルコ国内に古代から住むギリシャ人(150万人)を、ギリシャ国内のイスラム教徒(50万人)と交換する、という住民交換を実施しました。

実質的にはトルコからギリシャ人追い出し政策です。


①ユダヤ人のディアスポラ

 

ユダヤ人のディアスポラ

●ギリシアの歴史家であり地理学者であったストラボン(BC63~紀元21)

「キレネ(アフリカ北部リビア東部にあった地中海に臨む古代都市)には4つの階級がある。1番目は市民、2番目は農民、3番目は外国人居住者、そして4番目がユダヤ人である。

このユダヤ民族は、既にあらゆる都市に入り込んでいる。そして、およそ人の住める世界でユダヤ人を受け入れていない場所、その力を感じさせない所を見つけることは容易ではない。」

●ローマの歴史家ディオドロス(BC1世紀生まれ/著書『世界史』)

「あらゆる民族の中でただユダヤ人のみは、他のどのような民族ともうまくやっていくことをことごとく拒絶し、他の全ての人間を敵とみなしている」

●ローマの偉大な歴史家タキトゥス(紀元55~120年)

「ユダヤ人の習慣は卑しく忌まわしく、ユダヤ人がその習慣に固執するのは、彼らが腐敗堕落しているからである。ユダヤ人はユダヤ同士では極端に忠実であり、いつでも同情を示す用意ができているが、異民族に対しては、憎悪と敵意しか感じない。民族として激しやすい。ユダヤ人同士の間では、合法的なものは何もない。」


②ユダヤ戦争

 

 

ユダヤ戦争

帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争である。

ネロja.wikipedia
帝は将軍に三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた。

ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。

こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。

ユダヤ人の叛乱軍が66年以来立て籠もっていたエルサレムを陥落させ、市街のほか、聖地であるエルサレム神殿も破壊された。一部のユダヤ人はマサダ砦に逃れ、73年に玉砕するまで戦い続けた。

バル・コクバの乱(132年-135年)は、2世紀にローマ帝国支配に対しておきたユダヤ属州での反乱であり、ユダヤ人側の指導者の名からこのように呼ばれる。ハドリアヌス帝は、ユダヤ人を強制的に「離散」させた。


③中世ユダヤの民族移動

中世ユダヤの民族移動

ヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、商工業ギルドに加入することができなかったため、職工の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。

しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。

しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。

アシュケナージ

ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界(のちのイスラム世界)に住んでいた。

それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。

1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。

15世紀になるとドイツ諸邦でも迫害されたりした。

第一次世界大戦後に独立を果たしたポーランド共和国は、ポーランド分割以前のポーランド国家同様、再び世界最大のユダヤ人人口を抱える独立国家となった。

セファルディム

セファルディム(Sephardim)は、ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに15世紀前後に定住した者を指す言葉。それ以前については目下不明である。(スペイン系ユダヤ人などとも言う。)

1492年、イベリアに残る最後のイスラム政権を滅ぼしたスペインにおける大規模な排撃で、その多くが南ヨーロッパや中東、北アフリカなどのオスマン帝国の領域に移住し、少数ながら、オランダやイギリスにも移り、20世紀にいたる。


④ホロコースト

ホロコースト

1933年の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の権力掌握以降、反ユダヤ主義が国是となったドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。

第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。


樋口季一郎
ヤン・ズワルテンダイク
杉原千畝
小辻節三
根井三郎
王替夫・何鳳山

⑤キリストの磔刑

キリストの磔刑

キリスト教の聖典である新約聖書の四福音書に書かれているエピソードの一つ。

ナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑の死刑である十字架に磔になって処刑されたというものである。

ユダヤ教徒は教義上イエス・キリストをメシアと認めなかった。

また、イエスに従った使徒もユダヤ人であったにも関わらず、キリストはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、それまで「神に選ばれた選民」だったユダヤ人は一転して「神(イエス)を殺した賎民」と差別されるようになった。

キリストがローマ人に十字架にかけられたとしたら、ローマにバチカンを建設する事が出来ない。

従って、ユダヤ人の裏切りが原因で十字架にかけられたとする事にしないとキリスト教の布教が困難になる。

イスラエルの国内法である帰還法は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義している。

また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。

尚、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、イスラエル人である。


⑥魔女狩り

魔女狩り

ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興り、そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。

魔女狩りの理由をめぐる諸説

金銭目当て説、異教説、女性医療師弾圧説、災禍反応説、宗派的角逐説、フェミニストの主張、社会制御手段説、固く信じられていた魔女の存在、魔女狩りと近代憲法の原則。

アジア、アフリカ、中東、オセアニアの一部で現代でも妖術や精霊の存在、シャーマニズムが信じられており、一部の暴徒によって私刑という形で魔女狩りが行われている。

広義の「魔女狩り」

あるコミュニティ間で、思想的偏見にもとづいて行われる糾弾・排除行為のことを「魔女狩り」と隠喩することがある。たとえば1950年代のアメリカ合衆国で吹き荒れたマッカーシズムの嵐や、1960年~1970年代中華人民共和国で約2千万人が虐殺された文化大革命での騒動もこの意味での「魔女狩り」になる。吊るし上げや総括と似た意味を持つが、より「理不尽さ」の面を強調する時に用いることが多い。


アルメニア人のディアスポラ

アルメニア人のディアスポラ

4世紀にいち早くキリスト教を国教として取り入れたアルメニアは大いに繁栄し、その後イスラム教を受け入れた国々に囲まれ圧迫を受けても、11 - 12世紀には南トルコにキリキア・アルメニア王国を建てるなどもした。しかしその後勢いが衰えて、アルメニア人はレバノンなど地中海西部へのディアスポラができた。

近・現代には、19世紀末から始まったオスマン・トルコで起きたアルメニア人虐殺、また20世紀にソ連に組み入れられて起きた宗教弾圧などで、西ヨーロッパや南北アメリカやオーストラリアなどでのディアスポラが大規模に行われた。

アルメニア人のディアスポラは、欧米ではユダヤ人と並ぶディアスポラの代表格として認知されている。

2007年の調べでは、全世界には758万人のアルメニア人が存在するとされるが、アルメニア本国に暮らすものは297万人と、全体の4割程度である。

ソ連崩壊によりアルメニア共和国が独立した後、アルメニアはナゴルノ・カラバフ戦争(1988年2月20日-1994年5月12日)によってアゼルバイジャンとトルコから経済制裁を受けており、中東から帰国した在外同胞の中には、先行きの見えない経済状況を見限って欧米へ再移住する者も現れている。

独立後6年間だけでも、58万人が空路でアルメニアを出国したまま戻らなくなっており、アルメニア人は再びディアスポラとして世界へ拡散する動きを見せている。


東方植民

東方植民

東方植民は、12世紀から14世紀、エルベ 、ザーレ両川以東の地への神聖ローマ帝国の西部ドイツ人や騎士修道会による植民。後に、神聖ローマ帝国とドイツ騎士団領土の拡大に続く。エルベ以東の地方は、民族大移動前ゲルマン人の居住地域であったが、その後スラブ人により占拠された。

近・現代には、19世紀末から始まったオスマン・トルコで起きたアルメニア人虐殺、また20世紀にソ連に組み入れられて起きた宗教弾圧などで、西ヨーロッパや南北アメリカやオーストラリアなどでのディアスポラが大規模に行われた。

とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で軍事的性格の濃い植民を推し進め、のちのプロイセンのもとになる大規模な領土を獲得した。


①アフリカ人のディアスポラ

アフリカ人のディアスポラ

「アフリカ人のディアスポラ」(African diaspora)という用語は1990年代から言われるようになった。

16世紀から19世紀にかけて、西部アフリカ・中部アフリカの黒人たちが大西洋奴隷貿易(Atlantic slave trade)を通して、大勢南北アメリカへ渡った。

ディアスポラが「頭脳帰還」して、母国の発展に寄与する「チータ―世代」(Cheetah Generation)として歓迎するアフリカの国も出てきている。

聖書における関連部分

聖書に登場するセムは黄色人種の祖、ハムは黒色人種の祖、ヤペテは白色人種の祖とする、通俗的解釈が存在する。

箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。

さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。

また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。(口語訳聖書『創世記』9章18節-25節)


②南北戦争

 

 

南北戦争(The Civil War / American Civil War)

1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦である。

奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。

余談

トーマス・ブレーク・グラバーは、南北戦争で余った武器を日本で売りさばき、戊辰戦争(慶応4年/明治元年-明治2年(1868年-1869年))等に使用された。


印僑

印僑

インド系の人々の海外移住者を、中国系の華僑になぞらえて、「印僑」と呼び、一般的には19世紀以降のインドからの移民を対象としている。

なお、インドから分離や独立したパキスタン・バングラデシュ・スリランカ等からの移民もインド系民族として含まれることが多い。

インド系移民は大多数がイギリス支配の影響で、世界中のイギリスの植民地であった英語圏に移住している。

南インドのドラヴィダ人は海洋民族であり、古来からインド洋を超えて東南アジアやアフリカにまで渡った。

しかし、近・現代のインド人海外移住は三つの波があった。

まず一次は、イギリス支配下の19世紀には、同じイギリス支配下のマレーシア、南アメリカのガイアナ、アフリカ東部のタンガニーカ、ケニア、ウガンダなどに農業従事者として移住が行われた。

二次・三次はおもに20世紀後半で、肉体労働者として中東諸国へ渡る者たち、高い学歴を生かしておもに欧米諸国に渡る人たちができた。

インド系住民は1560万人で、国連の経済社会局によって世界の最大であり、イギリスに720万人、アメリカ合衆国に住む412万人を始め、インド系住民が勢力を持つ国には、シンガポール(77%)、マレーシア(61%)、ガイアナ(51%)、トリニダード・トバゴ(41%)などがある。

Chinese & Indians Diaspora

~ 華僑 ~

①華僑

漢民族

漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。

伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。

漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。

漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱や三国鼎立の時代、さらには八王の乱・永嘉の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている者は500万人を切った。

4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され(→五胡十六国時代)、この結果、中原に居住していた民族の一部は南方に移動(→客家)した。

華僑

中華人民共和国の中国共産党政府の定義では、「中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称とされている。

外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。

華人

華人は、移住先の国籍を取得した中国系住民をさし、国籍を取得していない華僑とは違う。

僑は全世界にわたってひろく存在し、各地で経済的、文化的、そして政治的にも重要な存在となっており、現在の全世界の華僑の実勢はおよそ2500万人、その分布は東南アジアに約2100万人、アメリカに約100万人、カナダに約45万人、南米に約30万人、ヨーロッパに約40万人、オーストラリアに約30万人と言われる。

各地の華僑は、中国の出身地(福建や広東など)ごとにグループごとの居住地で協力しながら独自の社会を建設し、時として現地人と激しい競合を演じながら、その勤勉さによって成功を遂げる人も多く、その地の経済に大きな影響力を持つようになった。

現在はシンガポール、マレーシアでは華僑の存在が特に重要になっている。

また移住して数世代を経た華僑(特に華裔(かえい)とも言われる)は、各地で経済的に重要な存在となっていった。

三合会の影響力は香港をはじめとして、マカオ、台湾、中国大陸といったアジア圏に加え、欧州、北米、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどの華人社会にまで至る、世界的規模の広域におよぶものであるとされている。


②客家

客家

古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。

歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。

移住先では先住者から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれ、先住者との軋轢も多かった。この争いを土客械闘という。

最初が秦の時代辺りから江西地帯への入植、第2段階が西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。第3段階が唐末の黄巣の乱に江西、福建、広東の奥地に南下。第4段階として南宋末期の元軍の侵攻により広東に拡がり、第5段階では、清の時代の領土拡大に伴い、西は四川省、東は台湾に展開、そして最後の段階として、海南島まで南下した。

在外華僑・華人としてタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国に暮らす者も多く、華人の3分の1は客家人である。

移民の通例として土地の所有が困難であったために流通や商業に従事することが多く、子弟の教育にも熱心なことで知られる。商業の他には教育の高さから教職に就くことが多い。

これらの特色から「中国のユダヤ人」などと呼ばれることもある。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に「四大移民集団」の一つと言われる。


③日本の華僑

日本の華僑

華僑の概念をひろくとれば、歴史的に多くの華僑が日本にもわたってきている。

元寇で捕虜となったが、日本側から許された南宋人らは博多の唐人町などに居住した。

また、明・清における海禁のもとで密貿易を行い財をなした後期倭寇の中国人も華僑の多くと同様に浙江・福建・広東出身者が多く(後期倭寇は華僑の走りとも解釈できる)、中には王直のように日本に渡ってくるものもいた。

日本においても多くの華僑が存在し、主に経済や文化芸能の方面で活躍が見られる。

女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢、インスタントラーメンの発明者である安藤百福(呉百福、戦後の一時期)、囲碁の呉清源(戦後の一時期)、小説家の陳舜臣、料理家の周富徳・富輝兄弟、歌手のジュディ・オング(翁倩玉)、アグネス・チャン(陳美齢)、テレサ・テン(鄧麗君)などが有名である。

横浜、神戸、長崎には中華街が形成されているほか、横浜、神戸、東京、大阪などに中華学校が存在する。

日本の外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に移住する中国人は、1970年代後半から急増し、20年で4倍以上に増えた。

以前から日本に長らく在住する中国人やその子孫を老華僑、改革開放以後に日本に移住した中国人を新華僑とも呼ぶ。


④韓国の華人

韓国の華人

現在の在韓華人の大部分は、この事件の後の1945年から1950年の間に韓国にやって来た。当時、中国では、国共内戦が進行中であり、大きな難民の流れを生み出していた。主として国民党の支持者であった多くの華人は、韓国を含む国外に亡命した。

元寇で捕虜となったが、日本側から許された南宋人らは博多の唐人町などに居住した。これら難民の大部分は、黄海西岸に存在する山東省出身者だった。

1970年代末から、中国人住民の数と在韓華人の活動は、急速に低下し始めた。ほぼ同時に、当局側の華人への待遇は改善されたが、華人は大量に韓国を離れ、台湾に移住し始めた。


⑤東南アジアの華僑

東南アジアの華僑

大航海時代到来によるアジア地域の変動や明代末の混乱等から、東南アジア各地への移民が全盛を極めたとされる。

20世紀初頭の清末には海外に逃れる中華人も増加、フランス領インドシナを中心に主に英領インド及び英領マレイ、フィリピンなどの主に植民地地域において農業、漁業、貿易、建築等に従事した。

中でもフランス領インドシナにおける華僑は、国民党を支持し、政治的影響力もあるほどになったとされている。

移民先では同郷意識が堅固で一定の地域に集団で居住する場合が多く、福建省から移住した中華人はベトナムの西貢やチョロン地区で農産物加工工場などの経営、広東出身の中華人は同地域で米、材木、石炭、ジャンク製造、獣骨、雌黄など主に農産物の輸出に従事するなど、商業においても出身地域による相互協力を構築していった。

全般的に東南アジアの華僑人口は増加しているが、ベトナムとインドネシアの二国は戦乱や現地民との軋轢により、華僑が一時に比べ減少している。

インドネシアでは1965年の9月30日事件で、特にベトナムからは1975年の中越戦争以降、110万人もの華僑がベトナム国外に脱出した。

しかし、ベトナムの華僑人口は現在でも130万人、インドネシアでは1千万人を数え、なお国内人口の相当部分を占める有力な民族集団となっている。


⑥タイの華人

 

タイの華人

中国系といっても、タイ国内においては混血が激しいため、極端な意見ではタイ人で華人の血が流れていない人を捜すのが難しいともいわれる。

タイの華人は、同化の傾向が大きく、タイ人であるという意識の方が強いといわれ、中国人に対してもあまり目立った友好を示すわけではない。また、華人が3世代目、4世代目などになると、ほとんどタイ語を話すようになり、中国語ができたとしてもほとんど祖父母と会話する際のみなどの状況が生じている。

これらのことから、タイにおける華人はタイにおおむね同化して来ているといえる。

華人がタイの経済の中核を握っているため、関係は最早切れなくなっている可能性が高い。

~ アジアのディアスポラ ~

越僑

越僑

ベトナム戦争中から終結までに国外へ脱出した人々をいうことが多、1979~82年頃にピークが見られる。

これらの人々の多くは中国系であり、1979年前後には、急激な社会主義化による資産制限・国有化に加え、中越戦争による民族的緊張から、都市部で商業を営む華人が大量に国外脱出し国際的問題となった。

ベトナムの総人口は、現在(2019年4月)は9,620万8,984人であり、総人口の約85.3%はキン族出身者であり、約8200万人いる。このほか海外に在住する国籍放棄者に対しても、政府は越僑(Việt Kiều)という枠組みを設定して「外国人」とは別の扱いをしている。

世界銀行は、2019年の在外ベトナム人(越僑)からの本国送金額が前年比4.6%多い167億米ドル(約1兆8,300億円)に上り、過去最高を更新すると予想している。

ボートピープル

紛争・圧政などの下にある地から、漁船やヨットなどの小船に乗り、難民(経済・政治)となって外国へ逃げ出した人々である。

朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、中華人民共和国、キューバ、ベトナム戦争以降の南ベトナム、アルバニア、モロッコなどで発生し、香港、アメリカ合衆国、カナダ、タイ、インドネシア、オーストラリア、日本、イタリア、スペインなどへ脱出している。

戦争、人種的対立、旧共産圏からの政治的迫害、社会主義思想を嫌う人々の他、経済的貧窮を逃れ新天地を求めようと脱出する人々などがいた。

また、日本への例として、朝鮮半島からは、戦前・戦後の出稼ぎ、朝鮮戦争や弾圧を逃れるための密航があった。


日本人のディアスポラ

日本人のディアスポラ

人数も広がりも中国ほどではないが、日本でも朱印船時代のアユタヤ日本人街を経て、明治以降はハワイに、北米大陸に、中南米諸国に日本人が移動した。

また第二次大戦以降は経済的困難な時代の移民という形や、その後の経済進出、または海外在住退職者などで、海外に日本人コミュニティーできた。

こうした現象は、特に1990年代以降「日本人のディアスポラ」(Japanese diaspora)という概念で、世界的にはくくられている。

日僑

香港・中国本土・シンガポールなどのアジア地域に移住し、現地で起業した日本人をいうことが多い。

 

日本人村(アユタヤ日本人町の跡)

16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが築き、最盛期には2000~3000人以上もの日本人が住んでいた。

日本人の多くは、アユタヤの傭兵としてビルマ軍との戦いにも参戦。日本人町の町長、山田長政は22代ソンタム王から官位を与えられるほど大活躍しましたが、1630年に憤死。

日本の鎖国で18世紀初めにはこの街も消滅、敷地内には石碑や2007年に日タイ修交120周年記念館が設立され、友好の歴史を知ることができる。

ホイアン

16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。

1601年には広南阮氏は、徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。

朱印状による約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど、繁栄を誇ったが、間もなく江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。

江戸時代初期の対外遠征
1603.2.12江戸幕府開設
1609.2.26薩摩藩主島津家久、家臣樺山久高を琉球に出兵(琉球出兵)
1609.4肥前有馬藩主有馬晴信、台湾視察のために家臣を派遣
1609.4.23樺山久高、琉球首里城を攻撃し、国王尚寧らを生け捕る
1609.7幕府、島津家久に琉球を与える
1609.12.9有馬晴信、長崎港でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を拘束し、後に撃沈する(マードレ・デ・デウス号事件)
1614-15大坂の陣
1616.1.23長崎代官村山等安、子の秋安を台湾に派兵(台湾征伐)。
1628-1632台湾事件
1630.11.11島原藩主松倉重政、ルソン征伐のために偵察を派遣 11.16 松倉重政死去。ルソン征伐中止
1637幕府、ルソン征伐を計画するが島原の乱発生のため中止
1646 明の遺臣・鄭成功、幕府に対して度々援軍を要請。将軍・徳川家光は乗り気だったが、尾張藩主の「外国の戦争に介入することはよくない」との意見を入れ拒否する。

【来源 : http://www.asyura2.com/0505/asia2/msg/325.html】

~ その他色々 ~

黄禍論

黄禍論

近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人、日本人である。

とくにアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。

アメリカが連邦レベルで移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限が撤廃されるのは1952年、カリフォルニア州で人種による土地所有・賃借の制限が消滅するのは1957年のことである。

1965年にアメリカの移民法で国別人数制限が改正された。


ジプシー

ジプシー

ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパ(欧州)で生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。

ジプシーは「西暦1100年にギリシャのアトスに現れた」とする記録が最古のものとされる。

「ジプシー」という言葉は、日本では近年、放送禁止用語、差別用語になっている。「ジプシー」は「ロマ」「ロム」「スィンティ」と最近では自称し、「ロマ」と呼ぶことをEUも提唱しています。


ペストの流行

ペストの流行

ヨーロッパで最初に記録に残っているペストの流行は、542年から543年にかけて東ローマ帝国で流行したものである。「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれている。

14世紀には全世界にわたるペストの大流行が発生した。

この流行はアジアからシルクロードを経由して欧州に伝播し、人口の約3割を死亡させた。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。

14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。

地中海の商業網に沿って、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。


鄭成功と蒋介石

鄭成功

下り坂の明朝に対する清朝の圧力に抗するも敗退して大陸から駆逐され台湾に拠点を移すが、澎湖海戦に破れ滅亡した。

蒋介石

毛沢東による三大戰役に敗退して大陸から駆逐され台湾に拠点を移す。引き続く毛沢東の圧力に耐え続け、世界情勢(朝鮮戦争等)の影響もあり辛うじて体制維持を続けている。

人類の絶滅

人類の絶滅

「絶滅」の原因として考えられているものは、自然現象によるものと、人類自身の活動の結果によるものの二つに分けられる。

自然現象としては隕石衝突やスーパーボルケーノによるものなどが考えられるが、これらが発生して人類が滅亡に追い込まれる事態が起きる確率は極めて低いと考えられている。

人為的なものとしては、核によるホロコーストや生物兵器戦争、パンデミック、人口過多、生態系の崩壊、地球温暖化などの仮説シナリオが提唱されている。こうした理由によって例えば百年以内に人類が滅亡する、というような議論は長年にわたり活発に行われている。


    inserted by FC2 system