関東平野

関東平野の成り立ち
東京の地形

平安海進 引用ボックス

日本においても平安海進の影響は大きく、特に縄文海進の時にも大規模な海進が生じた関東地方ではそれが顕著であった。

例えば、戸籍の一部が残されていることで知られている下総国葛飾郡大嶋郷は現在の東京都葛飾区及び江戸川区の太日川(江戸川)の自然堤防及びその周辺にあったと推定され、現地では大嶋郷の集落の一部とみられる遺跡(葛飾区の新宿町遺跡など)が発見されているが、8世紀まで順調に発展してきた集落が9世紀に入ると突然姿を消している。

 それを裏付けるかのように承平年間に著された
和名類聚抄ja.wikipedia
の郷名の一覧からは大嶋郷の名前は姿を消している。

こうした変化は海進によって現在の東京低地(東京都の下町地域の低地)への大規模な海水の浸水・荒廃化をもたらしたことが原因と考えられ、また周辺地域の陸路・水路の交通路や交易圏の動向にも大きな影響を与えたと考えられている。

【参考資料】 田中広明「古代集落の再編と終焉」
(所収:浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 1北関東』(2003年、高志書店) ISBN 978-4-906641-75-8)

ミツカン 水の文化センター

https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/index.html
https://www.mizu.gr.jp/bunkajuku/index.html
https://www.mizu.gr.jp/archives/map.html
https://www.mizu.gr.jp/archives/graph.html

関東平野の治水工事史

1590年
天正18年(1590年)に太日川下流の行徳塩田と
隅田川ja.wikipedia
を結ぶため、
小名木川ja.wikipedia
を開削した。
1590年-1640年
 徳川家康が関東に移封された後の1590年(天正18年)より開発し始め、その後1640年(寛永17年)までに16の新田集落ができていった。
1594年
文禄3年(1594年)に行われた
会の川ja.wikipedia
の締め切り工事は、近年の研究では、忍領の水害対策と考えられている。
1596年-1615年
慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源とした。
1621年
元和7年(1621年)の
浅間川ja.wikipedia
を締め切り埼玉県加須市新川通開削し、渡良瀬川に接続した。
1629年
寛永6年(1629年)に
新川ja.wikipedia
を開削し、行徳塩田から隅田川へ繋いだ。
1654年
承応3年(1654年)に古河市中田(栗橋の対岸)付近から分水嶺を越えて
赤堀川ja.wikipedia
を開削する工事を行い香取海(銚子河口・太平洋)に通じる河道を開いた。

これにより、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、
権現堂川ja.wikipedia
から
江戸川ja.wikipedia
を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から
常陸川ja.wikipedia
を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は
逆川ja.wikipedia
を介して関宿でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。
1665年
寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した。
1783年
天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。
当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。
1914年-1921年
横利根閘門ja.wikipedia
 利根川改修工事の一部として1914年(大正3年)に着工し、7年後の1921年(大正10年)に完成した。
1926年
明治43年(1910年)の
関東大水害ja.wikipedia
の結果、江戸川へは棒出し(後・
関宿水閘門ja.wikipedia
)によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、大正15年(1926年)には権現堂川が締め切られる。
中国の河川・運河等

中国の運河

中國洪水史
前1920年?
前246年
咸陽北方の瓠口で涇河の水を分け、洛河に至る水路 
鄭国渠ja.wikipedia
 
鄭国ja.wikipedia
前221年-前224年
秦の始皇帝が築いた揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河 
霊渠ja.wikipedia
前256年-前251年
李冰ja.wikipedia
が、洪水に悩む人々を救うために原形となる堰を築造した 
都江堰ja.wikipedia
 
584年
長安と黄河を結ぶ広通渠 
楊堅ja.wikipedia
(文帝)
587年
淮水と長江を結ぶ山陽瀆(邗溝) 
楊堅ja.wikipedia
(文帝)
605年-610年
黄河と淮水を結ぶ通済渠通済渠・黄河と天津を結ぶ永済渠・長江から杭州へと至る江南河  楊広(
煬帝ja.wikipedia
815年
浙東運河 西興に始まり紹興を経て寧波市に至る 
浙东运河纤道zh.wikipedia
1279年
坝河 大都
1280年-1282年
胶莱河zh.wikipedia
 山東省の膠州から莱州
1281年-1283年
济州河 茶城~安山
1289年
会通河 山東省の臨清から東平
1292年-1293年
郭守敬、通州と大都を結ぶ通惠河を設計
1887年
 黄河は周りが標高のより低い平原だったため堤防の中を流れていたが、そのため洪水が頻発していた。この1887年9月(光緒13年8月)に起きた洪水で少なくとも90万人が死亡し、記録が残る中で最悪の自然災害の一つとなった
1931年
 春の雪解けと豪雨によって川の水位が大幅に上昇した上、7月だけで7個の台風が襲来した
1938年
黄河決壊事件ja.wikipedia
 中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫
1958年
  洪水は1708の村を浸水し、304万エーカーの耕作地を浸水し、30万軒の家屋が倒壊し、北京-広州鉄道は14日間中断され、74.08万人が被災した
1993年-2009年
2002年-2013年
南水北調 東線工事
2016年
2017年6月22日から7月にかけて
 中国の中南部で豪雨により発生した大規模な洪水。主な被災地は広東省、広西チワン族自治区、湖南省、湖北省、江西省、江蘇省、安徽省、浙江省、河南省、山東省であり、湖南省は被害の最も深刻な地域である。中国全土で60以上の河川が警戒水位を超えて、洪水による死者は少なくとも90名に達し、損害額はおよそ250億人民元に達した
2020年5月15日から7月にかけて
 中国の中南部で豪雨により発生した大規模な洪水[1][2]。主な被災地は安徽省、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、雲南省、重慶市、貴州省、江西省、四川省であり、安徽省と江西省は被害の最も深刻な地域である。中国全土で130以上の河川が警戒水位を超えて、洪水による死者は少なくとも141名に達し、損害額はおよそ695.9億人民元に達した
2021年7月17日より
 7月17日以降、中国中部で発生した大規模な洪水である、「1000年に一度の豪雨」と称されるほどの記録的な豪雨となり、河南省の鄭州市では、わずか3日間で1年分の降水量に相当する大量の雨が降った
現在
海上交易
https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/

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