越王句践


はじめに

 春秋戦国の故事・名言は、2000年以上前の事で原典も殆ど失われてしまった。
 当時は地域ごとに話し言葉や漢字の書体が違い、意思の疎通も満足で無く、竹簡・木簡に記載されたことで破損されやすく保存が困難であった。ようやく秦代に漢字の書体が統一に向い、漢代後半に簡便な書体に変化し、更に紙が使われ始め書物が大量に編纂されるようになった。
 よって、春秋戦国の故事・名言は、新たに紙に転写され続けて行ったため、原典の趣旨に沿っているのか疑わしく、後世の知識人によって追加・削除・変更さりたり、物語風に飾り立てられたりした。
 尚、近年漢代の墳墓から竹簡・木簡が発掘され、部分的ではあるが少しずつ解明されつつある。

【参考】中国近代文献学 ― 余嘉錫の総合的研究


春秋筆法

春秋筆法

『太史公書』 世家 《孔子世家》
孔子在位聽訟,文辭有可與人共者,弗獨有也。至於為春秋,筆則筆,削則削,子夏之徒不能贊一辭。弟子受春秋,孔子曰:「後世知丘者以春秋,而罪丘者亦以春秋。」

孔子、位に在りて訟を聴くや、文辞人と共にす可き者有れば、独り有せざるなり。春秋を為るに至り、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る。子夏の徒、一辞を賛すること能わず。弟子、春秋を受く。孔子曰く、「後世に丘を知る者は春秋を以てせん、而して丘を罪する者も亦た春秋を以てせん。
孔子 世家
中国史春秋戦国

「春秋の筆法」の本当の意味

 「春秋の筆法」という言葉を、最近の日本では「風が吹けば桶屋が儲かる」のような、論理に飛躍がある意味だと思って人が多いのですが、だれが極悪人か尊皇かを、後世の人間がきびしく査定する、というものです。つまり、善悪はおのずから歴史が証明するという考えなのです。
 孔子が紀元前480年頃に編纂したことになっている『春秋』(本当は孔子が書いたものではありません)は、何年に戦争があって、何年に誰が王になり、何年に飢餓が起ったというような出来事を、240年にわたって記した、ただの年表です。
 後世になって、別の人間が、『春秋三伝』という三種類の注釈書を書いて、ただの年表である『春秋』が伝えるさまざまな出来事を、ひとつひとつ、「この人間のこの行いはただしい」、「この人は結果がうまくいかず、悪い」といったふうに、きびしく批判して善悪を決めました。それで孟子が、「孔子が『春秋』をつくったので、乱臣や賊がこれを恐れた」と言ったので、「春秋の筆法」という言葉は、「だれが極悪人か、それとも尊皇かを、後世の人間がきびしく査定する」という意味に使われるようになったのです。

【参考】『かわいそうな歴史の国の中国人』 宮脇淳子 徳間書店 2014年7月
【参考】

管鮑の交わり

管鮑の交わり

『太史公書』 列伝 管晏列伝  司馬遷
管仲夷吾者,潁上人也。少時常與鮑叔牙游,鮑叔知其賢。管仲貧困,常欺鮑叔,鮑叔終善遇之,不以為言。已而鮑叔事齊公子小白,管仲事公子糾。及小白立為桓公,公子糾死,管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用,任政於齊,齊桓公以霸,九合諸侯,一匡天下,管仲之謀也。……

管仲夷吾は,潁の上の人なり。少かりし時常に鮑叔牙と游ぶ,鮑叔其の賢なるを知る。管仲貧困,常に鮑叔を欺くも,鮑叔は終に善く之を遇し,以て言んを為さず。已にして鮑叔は斉の公子小白に事つかえ、管仲は公子糾に事かう。小白立て桓公と為り、公子糾死するに及び、管仲囚えらる。鮑叔遂に管仲を進む。管仲既に用いられ、政に斉に任ず。斉の桓公以て覇たり。諸侯を九合し、天下を一匡したるは、管仲の謀なり。……

『春秋』には、管仲と鮑叔についての記述は見当たらない。
管仲と鮑叔の関係(友情なのか、利害の一致なのか)は、現存の資料からは確認できない。


『春秋左氏伝』 荘公九年等を参考にして司馬遷が名文に仕立て上げた?

『春秋左氏伝』 荘公九年
秋,師及齊師戰于乾時,我師敗績,公喪戎路,傳乘而歸。
秦子,梁子,以公旗辟于下道,是以皆止,鮑叔帥師來言曰,子糾,親也,請君討之,管召,讎也,請受而甘心焉,乃殺子糾于生竇,召忽死之,管仲請囚,鮑叔受之,及堂阜而稅之,歸而以告曰,管夷吾治於高傒,使相可也,公從之。

秋,師齊の師と乾時に戰う,我が師敗績す,公戎路を喪い、傳乘して歸る。
秦子,梁子,公の旗を以て下道に辟く,是を以て皆止らる,鮑叔師を帥て來り言いて曰く,子糾は,親なり,請う君之を討ぜよ,管召は,讎なり,請う受けて甘心せん,乃ち子糾を生竇に殺す,召忽之に死す,管仲囚われんと請う,鮑叔之を受け,堂阜に及んで之を稅く。歸りて以て告げて曰く,管夷吾は高傒より治む,相たらしめて可なり,公之に從う。


狡兔死走狗烹

狡兔死走狗烹

※ 太宰嚭から大夫種への書
『韓非子』內儲說下 六微 利異二 韓非子
「君臣之利異,故人臣莫忠…太宰嚭說大夫種…
太宰嚭遺大夫種書曰:「狡兔盡則良犬烹,敵國滅則謀臣亡。大夫何不釋吳而患越乎」大夫種受書讀之,太息而歎曰:「殺之,越與吳同命。」

※ 吳王から大夫種への書
『吳越春秋 』 夫差內傳 二十三年 後漢の趙曄
吳王書其矢而射種、蠡之軍,辭曰:「吾聞狡兔以死,良犬就烹,敵國如滅,謀臣必亡。今吳病矣,大夫何慮乎」
※ 范蠡から大夫種への書
『太史公書』世家 越王句踐世家 司馬遷
范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去」

この様に、出典により書の送り主がそれぞれ違い内容も異なる。

※ 『太史公書』の韓信の稿にも…
『太史公書』「(韓信)淮陰侯 列伝」 司馬遷
信曰:「果若人言,『狡兔死,良狗亨;高鳥盡,良弓藏;敵國破,謀臣亡。』天下已定,我固當亨!」


臥薪嘗胆

臥薪嘗胆

出典時代「臥薪」「嘗胆」「臥薪嘗胆」 
『太史公書』世家/越王句踐世家前漢勾践飲食亦嘗膽也
『春秋左氏伝』前漢記述なし
『擬孫権答曹操書』北宋  「僕受遺以來臥薪嚐膽」の句有
『十八史略』夫差勾践子供向けの歴史読本日本で普及している
『東周列国志』勾践長編歴史小説

『春秋左氏伝』 定公十四年
夫差使人立於庭,苟出入,必謂己曰,夫差,而忘越王之殺而父乎,則對曰,唯不敢忘,三年乃報越。

闔閭の息子夫差は父の復讐を誓い、出入の際に必ず人に「夫差よ、越王がそなたの父を殺したことを忘れたか」と言わせては、「忘れておりません」と答えた。

『太史公書』 呉太伯世家十九年
闔廬使立太子夫差,謂曰:「爾而忘句踐殺汝父乎」對曰:「不敢」三年,乃報越。

『十八史略』で「朝夕臥薪中」が加わる。


『太史公書』 越王句踐世家
吳既赦越,越王句踐反國,乃苦身焦思,置膽於坐,坐臥即仰膽,飲食亦嘗膽也。曰:「女忘會稽之恥邪」。

呉が越に侵入、越王勾践は会稽山に立てこもり、呉の太宰嚭を通じて講和を願い出る、伍子胥は反対したが、夫差は講和を受け入れる。勾践はこの屈辱を忘れぬよう、苦い肝を嘗めては「お前は会稽の恥を忘れたのか」と言った。

石淋の味を嘗めて会稽の恥を雪ぐ(上の文と嘗膽の意味が異なる)
「越王勾践が会稽山の戦いに敗れ、呉王夫差の石淋(腎臓や膀胱に結石ができる病気。また、その結石。)をなめて病状を医者に報告するという恥に耐え、その後呉を討って仇を報いた。  (出典不明)

宋代の、蘇軾(1037-1101)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以來 臥薪嚐膽」、以降、『朱子語類』(1270年成立)や『資治通鑑』の胡三省(1230-1287)による注などから見かけるようになる。元代の『遼史』『宋史』『金史』にも記述が有ると云う。
東周列国志ja.wikipedia
』(清代の蔡元放によって改編された長編歴史小説)でも勾践が「臥薪嘗胆」したとある。

中国では「臥薪嘗胆」は通常、越王勾践の故事として語られています。
しかし、日本では「臥薪」は呉王夫差、「嘗胆」は越王勾践というように、分かれていることが多いようです。これは日本で普及している『十八史略』が影響していると思われます。
『十八史略』は中国ではほとんど読まれることがないため、「臥薪嘗胆」の伝わり方が日本と中国では異なるものになったようです。

中国史年表136 周敬王十六 臥薪嘗胆 前483~482年 より引用




孫子

《始計》 算多きは勝ち、算少なきは勝たず
夫未戰而廟算勝者,得算多也;未戰而廟算不勝者,得算少也;多算勝,少算不勝,而況於無算乎?吾以此觀之,勝負見矣。 それいまだ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。いまだ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。しかるをいわんや算なきにおいてをや。われこれをもってこれを観るに、勝負見わる。
《兵勢》 激水の疾くして石を漂わすに至るは勢なり
激水之疾,至于漂石者,勢也。鷙鳥之?,至于毀折者,節也。是故善戰者,其勢險,其節短,勢如張弩,節如機發。 激水の疾くして石を漂わすに至るは勢なり。鷙鳥の疾くして毀折に至るは、節なり。このゆえに善く戦う者は、その勢は険にしてその節は短なり。勢は弩を?くがごとく、節は機を発するがごとし。
《軍争》 迂直の計
孫子曰:凡用兵之法,將受命於君,合軍聚眾,交和而舍,莫難於軍爭。軍爭之難者,以迂為直,以患為利。故迂其途,而誘之以利,後人發,先人至,此知迂直之計者也。故軍爭為利,軍爭為危。 孫子曰く、およそ兵を用うるの法は、将、命を君より受け、軍を合し衆を聚め、和を交えて舎まるに、軍争より難きはなし。軍争の難きは、迂をもって直となし、患をもって利となす。ゆえにその途を迂にして、これを誘うに利をもってし、人に後れて発し、人に先んじて至る。これ迂直の計を知る者なり。
《軍争》 風林火山
故兵以詐立,以利動,以分合為變者也,故其疾如風,其徐如林,侵掠如火,不動如山,難知如陰,動如雷霆。掠鄉分眾,廓地分利,懸權而動,先知迂直之計者勝,此軍爭之法也。 ゆえに兵は詐をもって立ち、利をもって動き、分合をもって変をなすものなり。ゆえにその疾きこと風のごとく、その徐かなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難きこと陰のごとく、動くこと雷震のごとし。郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて動く。迂直の計を先知する者は勝つ。これ軍争の法なり。
《軍争》 正正の旗、堂堂の陣
無邀正正之旗,勿擊堂堂之陣,此治變者也;故用兵之法,高陵勿向,背邱勿逆,佯北勿從,銳卒勿攻,餌兵勿食,歸師勿遏,圍師必闕,窮寇勿迫,此用兵之法也。 正々の旗を邀うることなく、堂々の陣を撃つことなし。これ変を治むるものなり。ゆえに兵を用うるの法は、高陵には向かうことなかれ、丘を背にするには逆うことなかれ、佯り北ぐるには従うことなかれ、鋭卒には攻むることなかれ、餌兵には食らうことなかれ、帰師には遏むることなかれ、囲師には必ず闕き、窮寇には追ることなかれ。これ兵を用うるの法なり。
《九地》 常山の蛇 呉越同舟
故善用兵者,譬如率然;率然者,常山之蛇也,擊其首,則尾至,擊其尾,則首至,擊其中,則首尾俱至。敢問:「兵可使如率然乎?」曰:「可。」夫吳人與越人相惡也,當其同舟濟而遇風,其相救也如左右手。是故,方馬埋輪,未足恃也,齊勇若一,政之道也;剛柔皆得,地之理也。故善用兵者,攜手若使一人,不得已也。 ゆえに善く兵を用うる者は、譬えば率然のごとし。率然とは常山の蛇なり。その首を撃てばすなわち尾至り、その尾を撃てばすなわち首至り、その中を撃てばすなわち首尾ともに至る。あえて問う、兵は率然のごとくならしむべきか。曰く、可なり。それ呉人と越人と相悪むも、その舟を同じくして済り風に遇うに当たりては、その相い救うや左右の手のごとし。このゆえに馬を方べ輪を埋むるも、いまだ恃むに足らず。勇を斉しくし一のごとくするは政の道なり。剛柔みな得るは地の理なり。ゆえに善く兵を用うる者は、手を携うること一人を使うがごとし。已むを得ざらしむればなり。
《九地》 始めは処女の如く、後のちは脱兎の如し
是故政舉之日,夷關折符,無通其使,厲于廊廟之上,以誅其事,敵人開闔,必亟入之。先其所愛,微與之期,賤墨隨敵,以決戰爭。是故始如處女,敵人開戶,後如脫兔,敵不及拒。 このゆえに政挙ぐるの日、関を夷め符を折りて、その使を通ずることなく、 廊廟の上に厲まし、もってその事を誅む。敵人開闔すれば必ず亟かにこれに入り、その愛するところを先にして微かにこれと期し、践墨して敵に随い、もって戦事を決す。 このゆえに始めは処女のごとく、敵人、戸を開き、後には脱兎のごとくにして、敵、拒ぐに及ばず。
《九地》 高きに登りてその梯を去るがごとし
將軍之事,靜以幽,正以治,能愚士卒之耳目,使之無知。易其事,革其謀,使人無識,易其居,迂其途,使人不得慮。帥與之期,如登高而去其梯。 軍に将たるのことは、静もって幽、正もって治、よく士卒の耳目を愚にし、これをして知ることなからしむ。その事を易え、その謀を革め、人をして識ることなからしめ、その居を易え、その途を迂にし、人をして慮ることを得ざらしむ。帥いてこれと期すれば、高きに登りてその梯を去るがごとし。
《火攻》 それ戦勝攻取して、その功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。
夫戰勝攻取,而不修其攻者凶,命曰費留。故曰:明主慮之,良將修之,非利不動,非得不用,非危不戰。主不可以怒而興師,將不可以慍而致戰;合于利而動,不合于利而止。怒可以復喜,慍可以復悅,亡國不可以復存,死者不可以復生。故明君慎之,良將警之,此安國全軍之道也。 それ戦勝攻取して、その功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。ゆえに曰く、明主はこれを慮り、良将はこれを修む。利にあらざれば動かず、得るにあらざれば用いず、危うきにあらざれば戦わず。主は怒りをもって師を興すべからず、将は慍りをもって戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りはもってまた喜ぶべく、慍りはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず、死者はもってまた生くべからず。ゆえに明君はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。
※ 原文:
《孫子兵法》中國哲學書電子化計劃
  書き下し文:
孫子の兵法を学ぶキングダムで知る春秋戦国時代

出典 『韓非子』

逆鱗

《說難》
夫龍之為蟲也,柔可狎而騎也,然其喉下有逆鱗徑尺,若人有嬰之者則必殺人。
人主亦有逆鱗,說者能無嬰人主之逆鱗,則幾矣。

夫れ龍の蟲たる,柔なるときは狎れて騎る可きなり,然かれども其の喉下に逆鱗の径尺なる有り,若し人之に嬰るる者あらば,
則ち必人を殺す。
人主も亦た逆鱗有り,説く者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば,則幾からん。

三人、市に虎を成す

《內儲說上 說一》
龐恭與太子質於邯鄲,謂魏王曰:「今一人言市有虎,王信之乎」曰:「不信。」
「二人言市有虎,王信之乎」曰:「不信。」「三人言市有虎,王信之乎」王曰:「寡人信之。」

龐恭曰:「夫市之無虎也明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。」
龐恭從邯鄲反,竟不得見。

龐恭と太子とともに邯鄲に質たり,魏王に謂いて曰く:「今一人市に虎ありと言わば王これを信ぜんか。」曰く:「信ぜず。」
「二人市に虎ありと言わば,王これを信ぜんか」曰く:「信ぜず。」「三人市に虎ありと言わば,王これを信ぜんか」
王曰く:「寡人これを信ぜん。」

龐恭曰く、「それ市の虎なきは明らかなり,然るに三人言いて虎を成す。今邯鄲の魏を去るは市よりも遠し,臣を議する者三人に過ぎん,
願わくは王これを察せよ。」
龐恭邯鄲より反る,ついに見ゆるを得ず。

◇類似のものに「曾参、人を殺す」『戦国策』秦策がある。

矛楯

《難一》
賢舜則去堯之明察,聖堯則去舜之德化;不可兩得也。
楚人有鬻楯與矛者,譽之曰:『吾楯之堅,莫能陷也。』又譽其矛曰:『吾矛之利,於物無不陷也。』
或曰:『以子之矛陷子之楯,何如?』其人弗能應也。夫不可陷之楯與無不陷之矛,不可同世而立。
今堯、舜之不可兩譽,矛楯之說也。

舜を賢とせばすなわち堯の明察を去らん,堯を聖とせばすなわち舜の徳化を去らん;ふたつながら得べからざるなり。
楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り,之を誉めて曰く:『吾が盾の堅きこと,能く陥すこと莫きなり。』又其の矛を共て曰く:『吾が矛の利なること,物に於いて陥さざること無きなり。』
或ひと曰く:『子の矛を以て子の盾を陥さば,何如ん?』其人応ふる能はざるなり。夫れ陷すべからざるの楯は、陷らざる無きの矛とは,世を同じくして立つ可からず。
今堯、舜を共に誉めるのは不可,矛楯之說である。

矛楯の真意は、堯舜の世の否定。

《難勢》にも…
客曰:「人有鬻矛與楯者,譽其楯之堅,物莫能陷也,俄而又譽其矛曰:『吾矛之利,物無不陷也。』人應之曰:『以子之矛陷子之楯何如』其人弗能應也。」以為不可陷之楯,與無不陷之矛,為名不可兩立也。

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