墨翟と技術者集団

【1】 墨翟とは

1.生誕地は宋人説・魯人説・楚人説があるが司馬遷の史記・孟子荀卿列伝に「蓋し墨子は宋の大夫なり」と、記述がある等資料が極めて少ない。近年は墨子が宋の目夷の末裔であるとされ、目夷がいた場所が滕であり、墨子に関する遺跡が多くあることなどから、現在の滕州が有力な説になっている。
山東省滕州市東部荊河西畔にがある。
墨子・墨家
2.墨子は前五世紀前半に生まれ、前四世紀初頭の没したとするのが妥当だろうと云われている。孔子の『論語』では墨子にふれることがなく、孟子は墨子のことを非難していることから、孔子以後、孟子以前とも云われる。戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一の後、勢威が衰え消滅した。
3.著書といわれる『墨子』は、大部分がその弟子によって編まれたとみられ、一部が散逸しており、元の姿は無い。先秦時代由来の出土文献との比較で墨家集団消滅以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかったことが伺える。この間、殆ど顧みられなかったと思われる。
4.民国初期に
江瑔zh.wikipedia
(jiāng quán)が『読子卮言』巻二で初めて「墨」は個人の姓ではなく、学風に対して名づけられたものだと述べた。「墨」の字『説文解字』では、「三つよりの縄」という意味もあり、墨家集団は統率者を「巨子」とよんでいる、「巨」の字は「鉅」の字と同じであり、モノサシを握った人を示す工人用語である。
5.『墨子』は、「
雅言ja.wikipedia
」で記述されたと考えられる。 市場での取引の共通語であった「雅言」とは、名詞や動詞の文法上の区別もなく、接頭辞も接尾辞もなく、発音は二の次で、恣意的な漢字の組み合わせを目でみて理解するのだが、「て・に・お・は」も、性、数、格も時制もないので意味はおおざっぱにしかわからない。また、国ごとに文字の形や話すことばも異なり、百家争鳴の一因となったとも云われている。

【2】 『墨子』の構成

1.篇名だけが残り本文を欠くものが八篇、篇名・本文両方散逸するもの十篇であり、合計十八篇が失われ、現存するのは、五十三篇だけである。
第一類は、最も原初的な思想を伝えた親士・修身・所染・法義・七患・辞過・三弁。
第二類は、主要論考で、尚賢・尚同・兼愛・非攻・節用・節葬・天志・明鬼・非楽・非命。
第三類は、哲学、幾何学等を記した論文集で、経上・経下・経説上・経説下・大取・小取。
第四類は、言行録・説話集などで、耕柱・貴義・公孟・魯問・公輸・非儒。
第五類は、城を守る為の具体的な技術論集で、備城門・備高臨・備梯・備水・備突・備穴・備蛾傅・迎敵祠・旗織・号令・雑守。
2.

【3】 基本思想(墨家十論)

1.墨家の基本思想とは「兼愛」と「非攻」である。
2.「兼愛」とは全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教えで、儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるとし、世界史上最初の普遍的博愛主義であるとされているが、墨家のいう「愛」とはどの様な意味を持っていたのであろうか。
「愛」という漢字について亀甲獣骨文字の中に愛の字が見当たらないのは、人間の心理を表現する抽象的な内容の文字は、まだ作られていなかったのかもしれない。『説文解字』では、「愛という字は、進み行く様子をあらわす。」と説明している。愛の字は、字典の心部に属する文字になっているが、簡体字では「爱」という字形に変っており、心部とは無関係な字形になっている。『春秋左氏伝』、『礼記』、『論語』、『老子』等では、男女間に於ける愛情の意味での愛の字の用例は見当らない。
『墨子』では、「親士第一」の「雌有賢君、不愛無功之臣。錐有慈父、不愛無益之子。」という愛の字の用例からは、有功之臣や有益之子ならば愛しているということ、賢君や慈父にしてすら、自分に有利なものを好むという人情の機微を衝いた墨子の言葉を知ると共に、愛の字の用法が、無私無欲の愛から利害打算を含む愛まで含めていたであろうことを察せられる。
「脩身第二」には、「君子之道也、貧則見廉、富則見義、生則見愛、死則見哀。四行者、不可虚仮、反之身者也。」とあり、「生クルトキハ則チ愛セラレ、死スルトキハ則チ哀シマル」で、生きている人に対しては愛であり、死んだ人に対しては哀であるとする。

【参考】



一部分紹介すると…
1は『説文解字』から採録している。 2は魏の鍾孫の『淳化閣帖』から採録したもので、現行の愛の字と大差は無い。そして1から2への字形の変遷は、その間に漢隷の字形を置くことによって幾らか繋がりを感じ得るのである。
3と4とは『隷辮』から採録された漢隷であるが、1から3、4を通って2に変って行く過程を考えるのはそれほど無理ではあるまい。

現在用いられている「愛」の字の用法で二千五百年前の用法を推しはかっては誤った理解となってしまう。このことは、古代書物の解釈に同じ轍を踏んではならないのである。 そもそも春秋・戦国の世に書かれたとされる書物は、どの様な文字で書かれたのか。
金文から小篆・隷書・草書・楷書・行書を経て、木版印刷書体の宋朝体・明代から清代にかけて、明朝体が確立した。原本や書写したものは失われ(遺跡から発見された綿布・木簡・竹簡や青銅器・石碑等が僅かに残っている)大部分は木版印刷物しか現存しない。『墨子』も四分の一が失われ、残りはどの様な変化を辿ってきたのか。
3.「非攻」とは、当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定するが、「公輸」編(楚王が宋を攻めるため
公輸盤ja.wikipedia
が雲梯を造った。これを聞いた子墨子が斉から駆け付け公輸盤を論破して楚王の企てを阻止した。)に示された様に未然に侵攻を防ぐ努力をした。ただし防御のための防御戦は否定しなので墨家は守城土木、防御工作物といった工学的技術と人的防御活動のための人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防御に自ら参加して成果を挙げた。
しかし、もう一歩進んで国家間の力による争いを話し合いで、未然に防ぐための活動に踏み込めなかったのは墨家集団の考えが及ばなかったのか、その影響能力が乏しかったのか、まだ「法」による支配の概念が未発達の世では望むべくもない。二千五百年後の現在でも「法」による支配と声高に叫ぶが、人類はたいして進歩していない。
現在、「非攻」編(「殺一人謂之不義,必有一死罪矣,若以此?往…」)を意訳して「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」という言葉が流布されているが、これは、国家の秩序を乱す個人的な殺人は犯罪であり死刑とするが、国家の意思を達成するため他国を攻め取るのは称賛される事を国家は善としていたからであり、相対的なものでどの立場に立つかで評価基準が異なる。
4.「尚賢」で、貴賎を問わず賢者の登用を主張して、「尚同」で、その賢者に天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させろと述べていて、「天志」で、絶対者としての上帝を設定して正義の根拠とし、「明鬼」で、鬼神の存在を主張し、善悪の判断を委ねている。
賢者とは一体どの様な人物なのか、天子とは何のために存在しているのか、賢者とは、未来永劫に途切れなく現れ続けなければならないとすればまるで唯一絶対神のようである。結局は神頼みか。
その他、「節用」で、無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよとし、「節葬」で、葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
「非命」で、人々を無気力にする宿命論を否定し、人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。 「非楽」で、人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。但し、感情の発露としての音楽自体は肯定も否定もしない。これらを以て墨家十論という。
5.

【4】 墨家集団について

1.墨家集団は、主に三つの部署からなる組織とされる。諸国を遊説して布教活動を行う談弁という班、学団内で典籍・教本を著作・整備し、門人の教育を担当したとされる説書という班、そして、築城や防禦、守城兵器の制作、食糧の生産など様々な仕事を行う従事という班である。この他に、団員たちを諸国に派遣して、仕官させることにより、官僚の立場から布教活動を行わせようとした。派遣された者は、各地を遊説して歩く団員たちの食事や宿などの世話をする役目を担っていたとされる。このように、墨家はそれぞれに分業して活動していた。その組織の一番上に立つのが、「巨子」であった。
2.墨子には、孟勝たちのような権威があったようには見えない。墨家集団は、二代目の巨子であったと推測されている、禽滑釐の時代に強固な集団へと変化していったと考えられている。禽滑釐は墨子から守禦の術を伝授され、非攻活動に力を入れた弟子として知られている。戦闘になれば、自然と集団内も統率がとられていき、巨子の権限も強化されていく。そうして次第により分業体制の整えられた、強固な集団が作られていったと考えられている。
3.歴代鉅子
『墨子』、『呂氏春秋』等には、鉅子として禽滑麓、孟勝、田襄子、腹䵍がある。『荘子』・天下篇には、墨家は相里氏と鄧陵氏の二派に分れ、互いに「別墨」と非難したとあり、『韓非子』・顕学篇には、「自墨子之死也,有相里氏之墨,有相夫氏之墨,有鄧陵氏之墨。故孔,墨之後,儒分為八,墨離為三…」(墨子の死より、相里氏の墨有り、相夫氏の墨有り、鄧陵氏の墨有り。故に孔、墨の後、儒分かれて八と為る、墨離れて三と為る…)とあるように、墨子の死後、墨家は三派に分かれたとされている。
いくつかに分かれた集団の中には、秦に入り込んだ「秦墨」がいたとされている。秦の天下統一が進む中では、弱小の国を守るにも、自分たちが生き残るにも限界がある。 また、秦が天下を統一することによって、世界に安定がもたらされるし、墨家の思想も広める機会が出てくるという側面もあるため秦に入り込むことが起きても不思議ではない。秦としても、墨家の守城の技術を高くかっていたと思われる。
歴代鉅子
4.墨家への批判…
荀子は、『荀子』「富国篇」で未来構想も無く唯倹約を主張する墨家を、国家の経済を失速させて貧困を招く、と批判している。乱世に兼愛を説き、節用を主張すれば、重税感を持つ民衆の支持は得られだろう。が、それでは民間に還流する資金も滞り、結果的に皆が貧しく成る。
この世は、相対的なものであり善悪についても絶対的な善や絶対的な悪が有る訳ではなく、何時どの立場に立つかによってその認識は異なる。
例えば、始皇帝による焚書坑儒も始皇帝政府にとってみれば、各地で書きことばや話しことばが異なり、政府の布告も浸透せず国家運営に反故を来たし、真に不便極まりないのを改善するために、度量衡の統一と同様に言語の統一を実行したものである。儒家にとっては悪となるが、その後、他の学派の衰退で国家運営の中心と成り得た儒家の花盛りにしてみれば、むしろ結果として善ともとれる。
しかし、儒家思想の蔓延に毒され、また墨家が始皇帝に消滅させられたために科学技術や軍事技術の様な実学が凋落傾向に陥ってしまった。
清王朝時の西洋諸国からの圧力に慌てて墨家の古書に飛びついたが、所詮技術の蓄積が無く対応出来ずに、古来続いた王朝制度も終末を迎えてしまった。
孫詒譲ja.wikipedia
(1848年 - 1908年)は、1873年より国家の危機の際には墨家の思想が役に立つと確信し、『墨子』に校注を加え『墨子間詁』を著した。また、甲骨文に関する最初の組織的な研究書である《契文挙例》も著した。

【5】 墨子救宋

1.  公輸盤為楚造雲梯之械,成,將以攻宋。子墨子聞之,起於齊,行十日十夜而至於郢,見公輸盤。
  公輸盤曰:「夫子何命焉為?」子墨子曰:「北方有侮臣,願藉子殺之。」公輸盤不説。
  子墨子曰:「請獻十金。」公輸盤曰:「吾義固不殺人。」子墨子起,再拜曰:「請?之。吾從北方聞子為梯,將以攻宋。宋何罪之有?荊國有餘於地,而不足於民,殺所不足而爭所有餘,不可謂智。宋無罪而攻之,不可謂仁。知而不爭,不可謂忠。爭而不得,不可謂強。義不殺少而殺?,不可謂知類。」公輸盤服。子墨子曰:「然乎不已乎?」公輸盤曰:「不可,吾既已言之王矣。」子墨子曰:「胡不見我於王?」公輸盤曰:「諾。」
  子墨子見王,曰:「今有人於此,捨其文軒,鄰有敝輿,而欲竊之。捨其錦繡,鄰有短褐而欲竊之。捨其粱肉,鄰有糠糟而欲竊之。此為何若人?」王曰:「必為竊疾矣。」子墨子曰:「荊之地方五千里,宋之地方五百裏,此猶文軒之與敝輿也。荊有雲夢,犀?麋鹿滿之,江漢之魚???為天下富,宋所為無雉兔狐貍者也,此猶粱肉之與糠糟也。荊有長松、文梓、?楠、豫章,宋無長木,此猶錦?之與短褐也。臣以三事之攻宋也,為與此同類,臣見大王之必傷義而不得。」王曰:「善哉!雖然,公輸盤為我為雲梯,必取宋。」於是見公輸盤。子墨子解帶為城,以牒為械,公輸盤九設攻城之機變,子墨子九距之。公輸盤之攻械盡,子墨子之守圉有餘。公輸盤詘,而曰:「吾知所以距子矣,吾不言。」子墨子亦曰:「吾知子之所以距我,吾不言。」楚王問其故,子墨子曰:「公輸子之意,不過欲殺臣。殺臣,宋莫能守,可攻也。然臣之弟子禽滑厘等三百人,已持臣守圉之器,在宋城上而待楚寇矣。雖殺臣,不能絕也。」楚王曰:「善哉!吾請無攻宋矣。」子墨子歸,過宋。天雨,庇其閭中,守閭者不内也。故曰:治於神者,眾人不知其功。爭於明者,眾人知之。
来源 : 維基文庫
2.楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯を用いて、宋を併呑しようと画策する。それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。すかさず墨子は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と再び公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓った。使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さであった。この逸話から「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれた
来源 : ja.wikipedia.org
3.

4.

【6】 墨子の名言

1.君子不镜于水,而镜于人。镜于水,见面之容,镜于人,则知吉与凶。
君子は水に鏡せずして人に鏡す。水に鏡すれば面の容を見る。人に鏡すれば則ち吉と凶とを知る。
2.志不强者智不达,言不信者行不果。据财不能以分人者,不足与友。守道不笃,偏物不博,辩是非不察者,不足与游。
3.海纳百川,有容乃大,襟三江而带五湖。
4.食必常饱,然后求美;衣必常暖,然后求丽;居必常安,然后求乐。
5.良马难乘,然可以任重致远;良才难令,然可以致君见尊
良弓は張り難し、然れども以て高きに及び深きに入るべし。良馬は乗り難し、然れども以て重きを任せ遠きを致すべし。良才は令し難し、然れども以て君を致し尊きを見すべし
強弓は引き絞るのが難しい。しかし、一旦矢を放てば、高い所まで届いて深く突き刺さる。駿馬は乗りこなすのが難しい。だが、一旦乗りこなせば、重い荷物を載せて遠くまで駆けていく。すぐれた人材は使いこなすのが難しい。しかし、一旦使いこなせば、君主を導いて輝かしい栄光をもたらす。
6.言不信者,行不果。
7.法不仁,不可以为法。
8.看到别人需要帮助,即使面对危险,都会勇敢的站出来。这正是我们所说的“侠”
9.志不强者智不达。
10.兼相爱,交相利。 (既爱自己也爱别人,与人交往要彼此有利。)
兼ねて相愛し、こもごも相利す。 みなが相愛し、互いに相利する。自分のことのように相手を考えよ。
11.不足をかいて、有余を重ぬるなり。
不足している者からさらにものをとり、その分を有り余る者に重ねるようなやりかたをすれば国は亡びる。
12.官に常貴なく、民に終賤なし。
役人には賢才を高位につけるのがよいが、同じ人間が永久に貴い位置にあるのはよくない。民は努力する人間が栄えるべきで、同じ人間がいつまでも賤しい地位にあるのはよくない。
13.弓張って弛めざるがごとし。
弓を張ったままゆるめることをしないと弓は役に立たなくなる。人にも適当なくつろぎが必要だ。
14.乱のよって起こる所を知って、よく之れを治む。 乱はそれが起こる理由の根本を知ってはじめてよく治めることができる。
15.源濁るものは、流れ清からず。 源が濁ればその流れは清くならない。行いの根本に信義がなければ必ず亡びる。
16.義を為すは、毀を避け誉に就くにあらず。
道義を行うのは名誉を得るためではない。人として当然のことである。
17.庫に備兵なければ、義ありと雖も義なきを征する能はず。城郭備全ならざれば、以て自ら守るべからず。心に備慮なければ、以て卒に応ずべからず。
倉庫に武器の蓄えが無ければ、仮にこちらに正義があったとしても、不義を討つことはできない。城郭の備えが万全でなければ、守り切ることはできない。心に警戒を怠ったのでは、急場の事態に対処することはできない。

来源:墨子名言大全_名句_语录赏析_句子迷  来源:「墨子」の兼愛の思想とは?名言も現代語訳とともに紹介


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