『説文解字』


『説文解字』の活用例の紹介


 北京大学医学部 名誉顧問 岩元正昭氏の論文『古代漢籍読破に必要な漢字研究のススメ』を紹介する事により『説文解字』の大事さを再認識する。
岩元正昭氏の主張
 2011年7月16日(土)に第一回古代史文化フォーラム「邪馬台国研究大会」が早稲田大学西早稲田キャンパスで開催されました。この時、ご講演された岩元正昭氏の講演の概略をご紹介致します。
『説文解字』を使った倭人伝解釈について  講師 北京大学医学部 名誉顧問 岩元正昭
『魏志』倭人伝は晋朝の陳寿の編纂であり、三世紀後半に使われていた古代漢字で綴られた歴史書である。当然、倭人伝は三世紀に使われていた漢字の字義や用法で解読しなくてはならない。従って、西暦100年頃、後漢の許慎が編纂した字書『説文解字』によらなければならない。

【1】誤訳され続けてきた倭人伝

 『魏志』倭人伝は晋朝の陳寿の編纂であり、三世紀後半に使われていた古代漢字で綴られた歴史書である。当然、倭人伝は三世紀に使われていた漢字の字義や用法で解読しなくてはならない。

 ところが、近代以降の学者が習った漢字学は1716年中国清朝に刊行された『
康煕字典ja.wikipedia
』の漢字解釈を基にした新漢字学の教育によっている。漢字は生き物であり時代と共にその本義を変える(これを漢字の引伸と言う)。通説となっている倭人伝の日本語訳は『康煕字典』の漢字解釈を基にしており、三世紀の字義解釈で為されたものではないため、驚くほど誤訳が混入している。
 では、何によればいいのか。それは西暦100年頃、後漢の許慎が編纂した字書『説文解字』によらなければならない。この難解な字書を解説した『説文解字注』(
段玉裁ja.wikipedia
)があるのだが、我が国にはこの『説文解字注』の完全翻訳版が未だに刊行されていない。このため、倭人伝の翻訳は古代漢字の字義を知らぬ先達によって訳され続けてきたのである。畿内説の元祖、内藤湖南も九州説の元祖、白鳥庫吉も然りである。

【2】誤訳の「都」字

 倭人伝に「邪馬壹國、女王之所都」と書かれている。この「邪馬壹國」は「邪馬台国」の事であり、「女王」とは「卑弥呼」のことを言う。ここを通説では「邪馬台国は卑弥呼の都する所」と訳され、「邪馬台国は卑弥呼が為政の本拠地とした所」と理解されて来た。これを誰一人疑っていない。
 ここに使われている「都」字を『説文解字』で調べると、「都とは旧宗廟の有るを曰う」と書かれている。「旧宗廟」が有ると言う事は「新宗廟」が何処かに在る事を意味している。又『禮記』には「王が遷都した後に「旧宗廟」の在る地は王の子弟や公卿が治めるとあり、この地を「都」と言うと書かれている。つまり王は新たな地に遷都し、そこは子弟らの封地に成る。つまり、この原文が書かれた時点で卑弥呼は何処かに遷都しており、邪馬台国には既に居ない事を告げている。
 それでは卑彌呼の遷都先は何処か、についても触れておこう。倭人伝に明晰に書かれている。「次有奴國此女王境界所盡」の句である。「此女王」の三文字は「此処に女王が居る」と訳される。卑弥呼は「奴国」に邪馬台国から遷都していたのである。この三文字は「女王之所都」の五文字と照応している。
真説・魏志倭人傳

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※ 我々現代人の殆どが古代漢籍を現代語同様には読破出来ない。
 そもそも漢籍の完全なる解読技術を我々現代人は所持しているのか。実はこれが怪しいのである。 古代漢籍の研究の手順は古代漢籍の記述の信疑の確認に端緒を開き、更にその有り様の分析により始動する。
 ところが漢籍解読は容易に進捗しないのである。
 実は漢字は生物である。永い時間の中で今も引伸という変態を遂げ、成長している生命体である。つまり漢字が考案された時点での本来の字形と本義は人の生活営為や社会環境の変化に即して変容をきたすのである。随って古代史籍に載る漢字がその使用された時点でどのような意味を持っていたかを見極めることが難しい。その上に漢文には句読点がない。文の切れ目や文中の語句の断続が判明し難い、という負の要因が付き纏う。これが古代史籍の解読を更に難渋なものにしている。

『古代漢籍読破に必要な漢字研究のススメ』 / 岩元正昭氏 より引用

【3】漢字の成り立ち

 多数の民族が割拠していたが、秦が統一王朝を建て、漢が継承し、漢字・漢語・漢人が出現したが次の三国時代の混乱期に漢人は大幅に減少し、周辺地域から様々な民族が多数流入した。(この頃、初代漢人達は事実上消滅)

 わが国では、遣隋使・遣唐使の時代には隋・唐(北方の遊牧民族の王朝)と表記し、平安時代後期には宋(短期間の統一王朝・二代目の漢人達)と、鎌倉時代には元(モンゴル人の王朝)と、室町から江戸初期には明(万里の長城以南の限られた地域、北方は元の領域・三代目の漢人達)と、その後明治時代迄は清(満洲人の王朝)と表記してきた。

 また、時代を通して唐・天竺の唐(から)と称し・表記して来た。英語のChinaの語源は梵語の(チーナ Cina)で、これは秦(チン Ch'in)がインドに伝わったものであり。梵語の(チーナ Cina)がインドの仏典と共に中国に逆輸入され、「支那」や「脂那」と漢訳された。日本では、空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられている。「摩竭鷲峰釈迦居、支那台岳曼殊廬」(摩竭の鷲峰は釈迦の居、支那の台岳は曼殊の廬)。

 1912年建国した中華民國は略して中國とし、1949年建国の中華人民共和國も同様であり、その後中国人が誕生した。戦後、蒋介石は「支那」は蔑称だから使うなと言い、日本ではGHQの命令で「中国」と書き換え、英語のChinaも「中国」と翻訳し直した。よって、中国史と称したのでは、1912年以降の歴史となってしまう。

 現存する最古の漢字は、殷王朝第22代武丁の頃のもので、殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字(象形文字)である。その後、青銅器に鋳込まれた金文という文字が登場した。形声文字が発達した春秋戦国時代になると地方ごとに異なる字体が発生したが、始皇帝が小篆として字体を統一した。漢時代には、難解な書式であった小篆が隷書に変わって行った。隷書は、更に草書や楷書・行書に変化して行った。漢字が広く一般に使われるようになり、また木版技術の発展により、宋朝体や明朝体が確立した。現代ではさらに簡素化を進めた簡体字が一部使われている。
 漢字の発達の歴史を見ても人々や地域によっても字体や意味するところ、用法等が不統一であり、文法に対する向き合いが欠落していた。そもそも、統一した話し言葉が存在していなかった。

 清朝末になると、中国語のための表音文字を提案する者が多く現れ、1913年に中国語の標準的な音を定めるための読音統一会が開かれ、「(注音字母)
注音符号ja.wikipedia
」の作成が進められた。中華民国では台湾語を表記できるように拡張が試みられ、1998年に「方音符号系統」を制定し、1958年中華人民共和国では「
拼音ja.wikipedia
(漢語拼音方案)」を制定した。

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 漢字は表意文字ですから、文字自体がさまざまな概念を含んでいます。一つの文字が、名詞にも読まれるし、動詞になることもあります。そもそも古典漢文には助詞や接続詞がありません。主語・述語・目的語などのような並べ方に一定の規則もなく、文法もありません。ですから、文脈がわからないと漢文を正しく読むことはできません。

 『かわいそうな歴史の国の中国人』 宮脇淳子より引用

【4】『説文解字』とは何か…

許慎ja.wikipedia
(Xǔ Shèn 58?-147?)
 汝南召陵(現河南省漯河市召陵区)の人。許沖の父。著書に『五経異義』『説文解字』『淮南鴻烈間詁(
淮南子ja.wikipedia
の注釈)』がある。

説文解字ja.wikipedia

 小篆を中心とした字書最古の部首別漢字字典。略して説文ともいう。後漢の許慎の作で和帝のとき(紀元100年/永元12)に成立した。
 従って、木簡・竹簡に書かれたが、許慎が著したそのままの形を伝えるテキストは存在しない。

[例]
魚 水蟲也。象形。魚尾與燕尾相似。凡魚之屬皆从魚。
 魚という漢字の場合。まず魚という字が小篆体で大きく載っていて、その下に少し小さい字で意味(水蟲なり)、構造(象形で魚尾と燕尾が似ている)、魚が部首であること(凡そ魚の属は皆、魚に從う)を説明する。

說文解字線上電子字典より





小徐本…宋の
徐鍇ja.wikipedia
(921-975)による『説文解字繫傳』全40巻(「説文漢字通釋」30巻、「部敍」2巻、「通論」3巻などから構成される)のうち第25巻は現在は失われている。

大徐本…兄
徐鉉ja.wikipedia
(916-991)によって『説文解字』(大徐本)が成立。版本には清代始めのころに刊行された『汲古閣版』(毛扆による第五修訂版が1713年)、それに基づいた『朱筠本』(1773年)、『藤花榭本』(額勒布・1807年)、『平津館本』(孫星衍・1809年)等がある。

 説文解字注…清の
段玉裁ja.wikipedia
(1735-1815)が著した『説文解字注』30巻(段注本)は、説文解字に対する注釈の最高峰と言われ、清の訓詁学の到達した一つの頂点として知られている。しかしながら、多数の文献を出典を明記せずに引用し、また誤りもあるので、例えば誤りを校正した
馮桂芬ja.wikipedia
(1809-1874)の『説文解字段注攷正』など、読解にあたっては副読本を手元に置いた方が良い。


 日本の国宝として説文解字木部残巻 本紙 縦25.4cm、全長243cm/唐の元和15年(820年)に書写されたと推定される/武田科学振興財団 
杏雨書屋武田科学振興財団
蔵がある。
北宋の徐鉉・徐鍇兄弟が校定する前のテキストを伝える貴重な写本である。 
説文木部残巻国指定文化財等データベース

※ 『説文解字』の「許叙」に六書の原理定義と挙例がある
 漢字には単体と複合体の二種類がある。単体漢字に指事文字、象形文字の二種類がある。複合体漢字には漢字の構成と用法を言う二グループがある。漢字の構成グループに會意文字と形聲文字があり、漢字の用字グループに転注文字と仮借文字があるである。これを六書と謂う。
《周禮》:八歲入小學,保氏教國子,先以六書。
一曰指事。指事者,視而可識,察而見意,“上、下”是也。
二曰象形。象形者,畫成其物,隨體詰詘,“日、月”是也。
三曰形聲。形聲者,以事為名,取譬相成,“江、河”是也。
四曰會意。會意者,比類合誼,以見指撝,“武、信”是也。
五曰轉注。轉注者,建類一首,同意相受,“考、老”是也。
六曰假借。假借者,本無其事,依聲託事,“令、長”是也。

読み方は次のようになる。

 周礼に、 八歳にして小学に入る。保氏、國子に教えるに先ず六書を以ってす。
保氏というのは周礼に出る官職名である。 八歳にして学問を開始する。 最初に教えるのは「六書」だという。随って上に挙げた六書の定義は八歳の子供が理解できる内容と考えざるを得ない。

一に曰く、「指事」、指事とは、視て識すべく、察して意をみるべき。上、下是也。
二に曰く、「象形」、象形とは、画がきて其の物と成り、体に随いて詰す。日月是也。
三に曰く、「形聲」、形聲とは、事を以って名を為し、譬えを取り相成る。江河是也。
四に曰く、「會意」、會意とは、類を比し誼を合し、見を以って指撝す。武信是也。
五に曰く、「転注」、転注とは、類の一なる首を建て、同意相受く。考老是也。
六に曰く、「仮借」、仮借とは、本其の字無く、聲に依り事を託す。令長是也。

『古代漢籍読破に必要な漢字研究のススメ』 岩元正昭 より引用

『周礼』は偽書の疑いがあり、紀元前11世紀に
周公旦ja.wikipedia
が作ったとも、前漢代に
劉歆ja.wikipedia
が作ったともされる。

【5】『三国志』とは何か…

西晋の作史郎陳寿(233-297)が284年頃編纂した史籍、
『三国志』「魏書」「巻三十」「烏丸鮮卑東夷傳」の倭人の条は、どの様な形で世に出たのか?

◆ 正史への過程と裴松之注を経て三国志演義へ
 陳寿の私撰として編纂されたが、同時代の類書を次第に駆逐し、370年後の唐代初期に太宗により正史が勅撰された際に、三国時代の正史として認定されたものである。
 劉宋の文帝(424-453)の命を受けた
裴松之ja.wikipedia
(372-451)は、429年(元嘉6年)にそれまでに流布していた三国時代を扱う史書を多く集め、それらの記事を『三国志』の注釈として挿入した。以後、『三国志演義』の誕生につながってゆくことになる。
から引用

◆ どの様な文字で書かれたのか?
 秦王朝で小篆の書体が公式に定められた。しかし、複雑な形をした小篆はきわめて書きづらく書体の単純化・簡素化を生み、やがて隷書が誕生した。漢王朝では、公式書体として隷書が採用され、後漢時代に草書・行書・楷書が発生した。

【参考WebSite】

干禄字書
祭姪文稿

◆ どの様な媒体に書かれたのか?
 南宋の時代に書かれた『後漢書』には、105年に
蔡倫ja.wikipedia
が樹皮やアサのぼろから紙を作り和帝に献上したという内容の記述があり、その後木簡・竹簡から紙の使用に移って行った。
 最近、漢時代の墳墓から木簡・竹簡が大量に出土して考古学的に重要な資料となっているが、紙に書かれた資料の大部分が失われている。『三国志』等も原本は確認されていず、紹興年間(1131-1162)の紹興本が最古である。紙は保存が難しく長い間に破損してしまい、紙の使用が不幸となってしまった。

 また、『北京と内モンゴル、そして日本 ~文化大革命を生き抜いた回族少女の青春記~』 金佩華 によれば、北京郊外で生活していた彼女は、文革中16才で内モンゴルの砂漠に集団で行かされた思い出を語っている。住む家を造るために周囲に沢山あった漢時代の墳墓を掘り起こし、骨は放り投げ、煉瓦を取り出し家の材料とした… とある。(遺跡の破壊)

 更に、以前から続いていた事だが発見された遺跡に附近の人(盗掘者)が勝手に入り込み地面に落ちていた木簡・竹簡を松明代わりに使ってしまった。(木簡・竹簡の消滅)

◆ 現在通行している版本は…
 から引用
百衲本(宋本)………最古の本である紹興年間(1131-1162)の刻本を底本としている。
              ただし一部欠落があるため、紹煕年間の刻本で補い、
張元済ja.wikipedia
が1936年に編した。
武英殿本(殿本)……明代の北監本を底本に陳浩らが1776年に編した。
              政府部局である武英殿書局による欽定本。
金陵活字本(馮本)…明代の南監馮夢禎本を底本に
曽国藩ja.wikipedia
が設立した金陵書局が1870年に編した。
江南書局本(毛本)…毛氏汲古阁本を底本に曽国藩が設立した江南書局が1887年に編した。

【参考WebSite】


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◆ 何時書かれたのか?
 『華陽国志』と『晋書』によれば、鎮南将軍の杜預は陳寿の『三国志』成立以後に、陳寿を散騎侍郎にすべく推挙している。杜預は、武将として呉を降した功績があり、また『春秋左氏伝』の註釈を完成した著名な学者でもある。杜預は284年12月に亡くなっていることから、『三国志』の成立は、284年12月より前と言うことになる。
 これらのことから、『三国志』全体は、284年に呉の孫晧が没してから、284年12月に鎮南将軍の杜預が亡くなるまでの期間に完成したと判断できる。つまり、284年に成立したことが確定するのである。

『魏志倭人伝』成立論争 / 邪馬台国の会 から引用

『説文解字』の変遷
 105年に蔡倫が紙の製造技術を改良したので、100年に成立した許慎の『説文解字』は木簡・竹簡に書かれ、書体は小篆と隷書または楷書である。
 また、21世紀にSNSがアラブの春をもたらしたように、紙の使用が広がったため檄文伝達が容易になり黄巾の乱の切っ掛けとなった。
その後、三国時代の混乱期を経て唐代に日本の国宝として存在する説文解字木部残巻にある様に紙に転写されていった。
 宋代には徐鉉による『説文解字』(大徐本)の完成を経て、清代始めのころに刊行された『汲古閣版』、それに基づいた『朱筠本』(1773年)、『藤花榭本』(額勒布・1807年)、『平津館本』(孫星衍・1809年)等がある。
 清の段玉裁(1735-1815)が著した『説文解字注』30巻(段注本)は、説文解字に対する注釈の最高峰と言われるが、誤りを校正した馮桂芬(1809-1874)の『説文解字段注攷正』がある。
『三国志』の変遷
 284年に成立した『三国志』は、紙に楷書で書かれたと思われるが、唐代の顔元孫が著した『干禄字書』で楷書の字体を整理し、標準字形を提示したとあるので、楷書の用法も不安定であったのか。
 この間どの様な経緯をたどったのか原本は失われ、紹興年間(1131-1162)の紹興本が最古であり、明代以降に作成された版本が数種類存在する。
 正史は、前王朝の歴史を現王朝が作成するといわれているが、その補修や保管は後の王朝はどの程度関心があったのか…
『三国志』の時代の様相
 各々の勢力範囲では、漢では中原の人々と西戎・北狄・東夷等、呉では中原の人々と東夷・南蛮等、蜀では中原の人々と南蛮・西戎等が主たる構成を成していた。
 従って各々の間のコミュニケーションは、文書が主であるが隷書・楷書や地域による独自の変化した書体で翻訳者が必要だし、まして会話に至っては通訳の存在は必須であっただろう。
 この様な状態で残された原始資料を収集するのにも、解読するにも困難であっただろうし、まして検証がどこまで出来たのであろうか?
 しかし、陳寿の個人的な努力によって歴史の一端を垣間見る事が出来るのである。感謝!

『説文解字』

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