沈魚美人


謡曲 船弁慶

謡曲 船弁慶


弁慶は静御前の宿所へ向かい、彼女を呼び出す。
呼び出された静(前シテ)。都へ帰るよう弁慶に告げられ、彼女は涙する。「そんな…。いや、これはきっと弁慶様の独断。義経様のもとに参り、直接お話し致しましょう」。
弁慶に連れられ、義経の前に進み出た静。ところが義経から聞かされたのは、やはり都へ帰れとの言葉。静は弁慶を疑ったことを詫び、愛する義経との別れを悲しむのであった。
義経は弁慶に命じ、静に酒を勧めさせる。悲しみに暮れていた静であったが、愛する義経の無事を祈念し、烏帽子を身につけて舞を舞いはじめる。
――その昔、中国 春秋時代のこと。越王勾践が仇敵・呉王を倒したのも、賢臣・陶朱公の計略があればこそ。しかし、そんな功績あった陶朱公も、栄達を望まず、後には政治を離れて悠々自適の生活を送ったとか。源平合戦の功績ありながら都を追われた義経様も、ですからどうか気を落とされず、頼朝様の誤解を解いて下さいませ…。
静は、愛する義経の前途を祝して舞を舞う。「やがて再び、世の中で御活躍なさる日が来ますよう…」。
そうするうち、早くも船出の時刻となり、義経一行は宿を出てゆく。舞の装束をそっと脱いだ静は、涙ながらに出発を見送るのであった…。
来源 : the能ドットコム

呉越の争いと西施

西施が越王勾践が呉の弱体化を狙って呉王夫差に献上されたという話は後漢代に著された『呉越春秋』『越絶書』などから見えはじめる。 【資料1】
cf.
★ 『国語』 越語上 「越人、美女八人を飾り、これを太宰語に納る」
★ 『史記』 越王句践世家 「句践、美女宝器をもって種をして呉太宰語に献ぜしむ」
⇒ もともと「西施」とは単に美女の代名詞なだけだったが、それが漢代以降になって呉越の争いに関連づけられるようになった?

美女の代名詞としての西施

◆ 美女二人を並列
★ 『管子』小称篇「毛焙・西施は天下の美人なり」
   「毛焙」は髪の長い女、「西施」は腰の細い女という意味の普通名詞であつて、もとも と固有の人名ではないのでは?
◆ 醜女と美女の対比
★ 『楚辞』惜往日「佳冶の秀芳なるを炉み、娯母妓として自ら好くす、西施の美容ありといえども、読炉入りてもって自ら代わる」(美人のかんばしい香りを妬んで、娘母のような醜女がなまめかしく自分を飾り、西施のような美貌の人がいても、読言をし妬む者がその美人を追い出して自分が代わりに入ろうとする)
★ 『淮南子』説山訓「媒母にも美なるところあり、西施にも醜きところあり」
cf.「楚腰」

★ 『韓非子』二柄「越王は勇を好みて、民は多く軽死す。楚霊王は細腰を好みて、国中多くの人餓ゆ」
西施は実在の人物ではない、という説があります。西施像ができるのは後漢の頃で、それ以前には西施がどういう人物だったのか、ほとんど記述がありません。東施の話や「狠妲妃、笑褒?、病西施、酔楊妃」、「沈魚」の由来。また、王昭君は極端な「なで肩」。貂蝉は「小耳」。楊貴妃は「腋臭(わきが)」等が解説されています。

西施のその後等

西施のその後

「呉の亡びし後、越は西施を江に浮かべ、鴎夷に随いもって終わらしむ」(『呉越春秋』供文)

① 「鴎夷Jとは疱贔(鴎夷子皮)のことであり、西施は疱贔と一緒に呉越を去った
② 「鴎夷」とは伍子膏が遺体を鴎夷に盛られて川に流されたことを指し、伍子膏に倣い西施は川に沈められ

西施にまつわる語

◆ 顰に倣う
 『荘子』天運西施が胸を病んで眉をしかめていたところ、その村の醜人がそれを見て美しいと思い、家に帰ると同じように胸に手を当てて眉をしかめるようになった。(それがあまりに醜いので)村の金持ちはそれを見ると門を堅く閉じて外に出なくなり、貧乏人はそれを見ると妻子をつれて村から逃げ出してしまった。彼女は(西施の)眉をしかめた様子が美しいことはわかったのだが、なぜ眉をしかめると美しいのかその根本をわかっていなかった。
「春秋時代のおんなたち」 
富田美智江ja.wikipedia
 より引用

【資料1】

 後漢・趙嘩『呉越春秋』(会稽の恥をすすごうとする越王勾践に、越の大夫種は、天や鬼神を祀り福を求めること、本材を献上して呉に宮殿造営などの土木事業を起こさせ、民を疲弊させることなどを献策した。そのうちの一つに、呉王夫差に美女を献上し、その心を惑わせるという策もあった。)(越王)十二年、越王は大夫種に「呉王は好色と聞く。これに美女を贈って惑わし、政務を執らせないようにするという計略はどうだろうか」と尋ねると、大夫種は「よいお考えです。美女を二人選んで献上しましょう」と答えた。そこで国中を探させると、苧羅(ちょら)山の薪売りの娘の西施と鄭旦という二人の美女を得た。彼女らを美しく飾り、行儀作法など三年かけて習わせてから、池贔に命じて呉に献上させた。呉王は「越が贈ってきた二女は、勾践の忠誠の証だ」と大いに喜んだ。伍子膏は「いけません。賢人は国の宝、美女は国の禍といいます。夏は妹喜で滅び、殷は姐己で滅び、周は褒以で滅びました」と諫めたが、呉王は聞かず、ついにその女たちを受け取った。 ← 『春秋左氏伝』『史記』には記載なし

西施画像


芭蕉

象潟や 雨に西施が ねぶの花奥の細道をゆく・象潟1
               芭蕉 奥の細道


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