西施が越王勾践が呉の弱体化を狙って呉王夫差に献上されたという話は後漢代に著された『呉越春秋』『越絶書』などから見えはじめる。 【資料1】
cf.
★ 『国語』 越語上 「越人、美女八人を飾り、これを太宰語に納る」
★ 『史記』 越王句践世家 「句践、美女宝器をもって種をして呉太宰語に献ぜしむ」
⇒ もともと「西施」とは単に美女の代名詞なだけだったが、それが漢代以降になって呉越の争いに関連づけられるようになった?
美女の代名詞としての西施
◆ 美女二人を並列
★ 『管子』小称篇「毛焙・西施は天下の美人なり」
「毛焙」は髪の長い女、「西施」は腰の細い女という意味の普通名詞であつて、もとも
と固有の人名ではないのでは?
◆ 醜女と美女の対比
★ 『楚辞』惜往日「佳冶の秀芳なるを炉み、娯母妓として自ら好くす、西施の美容ありといえども、読炉入りてもって自ら代わる」(美人のかんばしい香りを妬んで、娘母のような醜女がなまめかしく自分を飾り、西施のような美貌の人がいても、読言をし妬む者がその美人を追い出して自分が代わりに入ろうとする)
★ 『淮南子』説山訓「媒母にも美なるところあり、西施にも醜きところあり」
cf.「楚腰」
★ 『韓非子』二柄「越王は勇を好みて、民は多く軽死す。楚霊王は細腰を好みて、国中多くの人餓ゆ」
西施は実在の人物ではない、という説があります。西施像ができるのは後漢の頃で、それ以前には西施がどういう人物だったのか、ほとんど記述がありません。東施の話や「狠妲妃、笑褒?、病西施、酔楊妃」、「沈魚」の由来。また、王昭君は極端な「なで肩」。貂蝉は「小耳」。楊貴妃は「腋臭(わきが)」等が解説されています。